pu-log’s diary

たくさんの物語と出会うことを今年の目標とする。

恐怖の通過儀礼「フォービドゥン・プレイス 禁じられた場所」感想

カナダの森林地帯。キャンプに来ていたエイプリルは、カヌーで川下りをしていたミッチたちと出会う。彼らはロック・バンドのメンバーで、バカンスでアドベンチャー旅行を楽しんでいた。同行することにしたエイプリルと共に、4人は森の奥地へと進んでゆく。だがそこは、先住民以来の伝説が残る、“聖なる地”だった。森の中から、彼らを監視している何者かの視線。奇怪な現象が続き、やがて1人また1人、姿を消してゆく仲間たち。そして残されたミッチは、想像を超えた《怪物》と遭遇することになる……(ジャケットより)

フォービドゥン・プレイス 禁じられた場所 [DVD]

2019年、カナダで製作されたスリラー作品。「H.P.ラヴクラフト映画祭」なるものがあり、そこで最優秀作品賞を受賞しているそうだ。ラヴクラフトが提唱したクトゥルフ神話の定義を見ると、「『宇宙は無慈悲であり、人間中心の地球的な考えは通用しない』というコンセプトのもと、『矮小な人類が自身の常識が通じない強大な外宇宙存在に相対し、生命的な脅威、価値観を破壊される精神的な脅威に襲われる恐怖』を描く(ピクシブ百科事典)」とある。それをふまえて視聴すると、いろいろ間違っているもったいない映画ということがわかる。
 

簡単感想

私の評価は★3.8。平均よりちょっと上くらいには楽しめたが、世間の評価はのきなみ低空飛行である。決定的な失敗は、パッケージビジュアルおよび商品説明と内容がかみ合っていないからだろう。間違いなく、これは怪物に襲われる恐怖を楽しむ映画ではない。視聴ターゲット層を絞りにくい、非常にわかりづらい映画である。簡単には説明できないので、思い切りネタバレしつつそう思った理由を述べていきたい。

世の中は諸行無常である

メインキャラはバンド「スレッド・ドッグ」のメンバーであるミッチー、エリオット、オリビア+彼らのファンであるエイプリルの4人。カナダの大自然の中、カヌーで先住民の聖地巡礼をしているバンドメンバーとエイプリルが偶然出会い、行動を共にしていくことになる。
 
スレッド・ドッグはかつて「バックファイア」という曲で一世を風靡した、日本で言うところの虎舞竜的存在のバンドだ。だからといってバックファイア第2章を出すようなことはしておらず、新たなヒット曲を生み出し再起を図るべく躍起になっている。聖なる旅をしたいと言い出したのは、作曲をメインで担当するエリオット。彼が尊敬する伝説のギタリストが33年前にした儀式をなぞり、自分も恩恵にあやかろうとしたわけだ。
 
その中でさまざまな不思議体験に巻き込まれていくのだが、今作では物語の流れを表す小道具としてラジオが用いられている。まずは冒頭のナレーションを聞いてほしい。
「今日のゲストはすごいぞ、ロックバンドのスレッド・ドッグのインタビューだ。そのあとはオーバーオリエンダーの新曲も流すぞ」。
 
さらに続くラジオでリスナーから「一発屋」と言われたり、唯一のヒット曲であるバックファイアはミッチが作詞・作曲していたりすることがわかる。しかも彼らのファンであるエイプリルは3年前からバックファイアを着信音にしている。つまりエリオットは3年間生みの苦しみにもがき続け、もはや打つ手もなくスピリチュアルに頼るほど追いつめられているということだ。
 
聖なる儀式の内容はかつて先住民が行っていた手法「まじない師が14になった子どもたちに聖なる川の旅をさせて、いろんなものが混ざった薬を飲ませた」にならい、4つのチェックポイントを通過しつつゴールの小屋を目指すものだった。「いろんなものが混ざった薬」でピンときた方は正解、現代では「いろんな」を要約したドラッグを用いてその代替としている。そのせいで2日目あたりから見える人にしか見えないプレデター式の怪物があらわれはじめるのだが、早々に襲ってくることはしない。遠くから眺めて彼らを精神的に追い詰めるだけだ。

 
このプレデターがまた雑でおっかしいんだ。風景が幻想的になったり異形が見える人とそうでない人がいたり、薬による幻覚の作用と思わせてくるわりに着ぐるみなものだから、物質感がすごくて全然幻じゃない。チープなビジュアルは日本映画の怪獣に通じるものがあり親近感はわいたが、いかんせん迫力不足である。
 
そんなプレデターが襲ってくるのは、最終目的地である小屋に到着してからだ。だが、怪物映画と思って見始めた人の堪忍袋の緒はここでいよいよぶっちぎれる。散々じらしておきながら戦わねーのかと。そう、逃げるだけで戦わないのである。現実的に考えれば抗ったところで返り討ちにされるのは目に見えているが、フィクションでそれを言っちゃあおしめえだ。最後の最期でミッチーが一体だけ倒したが、画面が暗くて全身がわからないどころか顔もわからない、わかるのは塩化ビニール製ということだけ。もう一度ジャケットを見直しても本当にこの人が襲ってきているのかすらわからずじまいのまま、怪物の件は話が終わった。
 
ジャケット説明にもあるように、最後まで生き残れたのはミッチーただ一人。プレデターの襲撃を逃れた彼は、通りがかったトラックに拾ってもらい警察へ向かう。この車中で彼が聞いたラジオが、冒頭の内容とつながってくる。ラジオのゲストは「オーバーオリエンダー」のジェレミー。数日前スレッド・ドッグがインタビューを受けていた回で、新曲が紹介されたバンドである。彼らはなんと2日前に搭乗していた飛行機が墜落し、ジェレミー以外のメンバー全員が死亡するという事故にあっていた。一夜にして時の人となった彼らの曲は当然バカ売れだ。
 
ラジオを聞きながら車を走らせるミッチーたちは、人が外に投げ出されるほどの悲惨な事故現場に遭遇する。警察が到着するまで待機するトラック。そして、ミッチーは絶望する。倒れているのは共に旅をした仲間のエイプリル、オリビア、エリオットだったのだ。プレデターたちがミッチーに見せつけるため、無断駐車の車に投げつけ放置していったと思われる。呆然とするミッチーの耳に、ラジオの声が届く。「今聞いても色あせない、あの頃の記憶が蘇ってくるぞ。スレッド・ドッグのバックファイアだ」。
 
メンバー全員が死亡する状況の中、明暗の分かれた二人。ミッチーはラジオを聞きながら戻ってこない仲間を想い、自分がすでに過去の人であることを受け入れただろう。公然たる悲劇のオーバーオリエンダーと違い、禁忌に手を出したスレッド・ドッグの死の真相は誰にも公表されることはない。これまでの受難は、仲間の死は何だったのか、ミッチーに残されたのは虚無だけだ。
 
自分の力量を正しく図ることなく、身の程をわきまえない野心を抱えた者への教訓じみたものを感じるむなしい結末だった。おそらく、このことを描きたかった映画だと私は考える。怪物が物語を構成する一部に過ぎないのであれば、安っぽい造形だったことも納得できる。
 
ということで長々と書いてきたわけだが、とどのつまり大人しくバックファイア第10章をだしておけばよかったという物語である。儀式に参加した4人の中で、無欲だったのはミッチーだけ。歌が好きで仲間が好き、その純粋さが生き残れた秘訣なのかもしれない。鑑賞後に思いを巡らせる映画が好きな人には合っている作品だと思うので、ぜひ怪物に引きずられず見てほしい。まあ元々ジャケット詐欺をしなければよかっただけの話なんだけどね。付け加えてお伝えすると、怪物に頭を掴まれている女性も誰なのか不明。
 
最後にこれだけは言わせてくれ、ミッチーがエロい。女の子の肩に回した手が常に肌をなぞっていて、これがモテる男の自然な仕草なのかと戦慄した。