pu-log’s diary

たくさんの物語と出会うことを今年の目標とする。

「ヘル・レイザー」を好き勝手に語る

最近見た映画を見直したらコイツ文句を言うために映画を観ているんじゃあないだろうな、と指摘されても仕方のないラインナップだったので、たまには心から好きな映画を真面目に語ろうと思う。

ヘル・レイザー(字幕版)
ヘル・レイザー」は1987年、イギリスのホラー映画である。監督は原作者でもあるクライヴ・バーカー。ピンヘッドをはじめとする魔導士の先鋭的なデザインが有名で、あらゆる業界に影響を与えていることはすでに皆の知るところである。
 
そんな有名映画の何をいまさら語ればいいのか、言いだしてはみたものの最近は重箱の隅をつつくような物言いしかしていないこともあり、いい案が浮かんでこない。そこで、誰もしていないであろう、つまり誰も興味がない翻訳について述べていこうと思う。
 
この作品がブルーレイ・DVD化されたのは2011年である。映像を楽しむ手段としてDVDが主流となったあとも長年VHSしか流通しておらず、この作品を視聴するとなったら押入れからビデオデッキを引っ張り出し、その都度接続する手間が必要だった。で、円盤化の情報がでてやっとデッキが処分できるとなったわけだが、その際あらためて翻訳し直されたことで問題が発生した。VHS時代の翻訳のほうが、しっくりくる場面がけっこうあるのだ。それなら吹き替えで見ればよくない、というのは違う話で、カースティはアシュレイの声でないと駄目だし、ピンヘッドはブラッドレイの声じゃないと駄目という話である。吹替のないVHSを見すぎて、本人の声以外を異物として受け付けなくなった経験がある人はわかってくれるだろう。(吹き替えを否定しているのではなく、いつも洋画を見るときは映像に集中できる吹替派であることを申し添えておく)
 
以下に、わたしが特に気になるシーンのセリフを3つ挙げた。VHS、DVD、原作で比べるので、脳内で場面を再生しながらあてはめてみてほしい。なお、英語については適当ヒアリングにつき間違っていたら申し訳ない。
 

カースティが魔導士を呼び出した場面

no tears please it’s a waste of good suffering.
字 幕 泣くな、せっかくの苦しみが無駄になる。
吹 替 いかん、涙は流すな。苦痛のすばらしさを消してしまう。
ビデオ 涙はよくない。苦痛を流し去る。

 
フランクから奪った箱がパズルボックスであることを知り、遊び心で魔道士を呼び出してしまったカースティ。知らなかった、帰って、と泣き叫ぶ彼女に向けたピンヘッドのセリフである。3つとも言っている内容は同じなのだが、彼が発する言葉として考えてみてほしい。

終始無感情なピンヘッドが駄々をこねる幼子をあやすような口調になるのも特徴的なこのシーン。原作の該当箇所を見ると「泣くのはやめろ。せっかくの苦しみが無駄になる(P144)」と言っているので字幕が正しいと言えばそうなのだが、上記のような雰囲気の中、高圧的なものの言い方をするのはちぐはぐなように思う。消去法でビデオ翻訳に軍配があがるわけだが、それだけではなく言葉選びのセンスがすばらしい。「涙が苦しみを流す」なんて詩的な言い回し、魔道士の長たるピンヘッドが最も好んで使いそうではないか。

字幕翻訳の基本として、端的に伝わる表現というのがある。画面が切り替わるまでの短い時間の中で、そのキャラクターにふさわしいセリフを限られた文字数で伝えなければならず、その難しさは素人の私でもわかる。セノバイトという異界の使者を相手に訳者さんも相当ご苦労されたとは思うが、スクリーン公開を念頭に訳されていないからか、このシーンだけではなく全体的に冗長に感じるセリフまわしが多い。特に吹替は口パクに合わせているせいでピンヘッドの重厚な威圧感が弱くなってしまっているのが残念だ。

フランクの最期

jesus wept.
字 幕 キリストは泣き、俺は復活する
吹 替 神よ、くそくらえ
ビデオ 見るがいい

有名な最期のシーンである。無数の鉤で全身を引き伸ばされ身動きのとれない中、薄笑いを浮かべながらカースティを見つめるフランク。このときの彼の心情にアテレコするなら、「どうだいこのご機嫌な姿、お前が売った男をちゃんと見ろよ、このアバズレが」といったところか。

人間がどうあがいても無駄だと悟ったときの反応として考えられるのは、①泣き叫ぶ ②あきらめる ③開き直る である。常に神を冒涜しながら生きてきたであろうフランクの性格からして、当てはまるのは③だ。原作を見ても、「魔導士が何をしてもフランクの口からもう悲鳴は漏れなかった。かわりにフランクは、カースティに舌をつきだし、あかんべえをして、まだ懲りないのか、卑猥にその舌を振ってみせた(P168-169)」とある。それをふまえながら、あらためてセリフを考えてみてほしい。

この言葉は聖書の最も短い節で、訳すと「イエスは涙を流された」となるそうだ。神への侮蔑のみならずセノバイト(修道士)たちへの皮肉すら込もっている、まさにフランクらしい末期の言葉である。彼の性質を一言で表現した名台詞の翻訳として「神よ、くそくらえ」も悪くはないが、いささか平凡で陳腐。この短い一言にフランクのすべてが込められているという側面から考えても、ビデオ翻訳がもっともしっくりくる。何よりインパクトのある場面には端的なセリフがよく似合う。冒頭述べたようなフランクの心情をふまえても、意訳した「見るがいい」が私はだんぜん好きだ。字幕は続編があることを知っている、かつキリストの復活にかけた言葉なのだろうが、筋違いもはなはだしい。フランクが永久に復活することがないからこそ絶望が際立つ場面なのに、台無しである。ここまで物語を見てきたことすら疑う言葉で、なぜこのようにしたのか理解できない。

 

フィメール&ピンヘットのご退場場面

It’s not Living so soon are you/We have such sights to show you.
字 幕 まだ帰さない/お前が見るべきものを見せてやろう。
吹 替 そんなに急いでどこに逃げる/快楽の世界を見せてやろう。
ビデオ 逃げることはない/快楽の世界へ案内してやろう。

フランクが消え、魔道士たちがカースティを連れて行こうとするクライマックスシーンのセリフである。これは原作にはない映画のオリジナルだ。

魔道士たちは苦痛の先にある快楽こそが真の愉悦と認識しており、パズルボックスを開いた人たちにもこの快楽の素晴らしさを分け与えたいと本気で思っている善意の者である。ただし彼らの基準による善意を押し付けてくるから困ってしまうわけなのだが、まあそれは置いておくとして、彼らは初登場シーンで自分たちのことを「快楽の領域を広げる案内人(字幕)」「奈落の底に住む探究者だ(吹替)」「観念の果て 快楽の探究者(ビデオ)」と三様に自称している。これからカースティを連れて行こうとしている場面としては「見せる」より「案内」のほうがよりふさわしい言い回しに思える。フィメールにしてもカースティを追い詰めることを楽しんでいるふしが見られるので、遊びの余裕を感じる「逃げなくてもいいじゃない」がぴったりだ。字幕版の翻訳はちょっと何言ってんのかわかんないです。おうちに帰るのはカースティではなくあなたたちでしょ。

 
 
さて、またしても重箱の隅をつつきすぎて穴があいてしまう内容となり、申し訳なく思っている。ビデオ版の翻訳をした方の世界観の理解が深すぎるし、くらべるほどに言葉選びが秀逸なことがわかってしまったが故の仕方のないこととしてご容赦いただきたい。さらなるネタバレを言ってしまうと、原作では拷問を担当する「技師」という魔道士が別に存在しているので、もしかしたらそういうことも含めて翻訳されていたのかもしれない。ちなみにルマルシャンの箱はパズルボックスであり、オルゴールでもある。箱のからくりをとくごとに繊細なメロディが流れるのはそのためだ。
 
それでは、劇中最も美しいカースティのお姿にて締めることとする。