pu-log’s diary

たくさんの物語と出会うことを今年の目標とする。

今日の一冊:「ミッドナイト・スワン」

ミッドナイトスワン (文春文庫)
映画が先に公開され、あとから監督が小説化した作品。予告だけで泣いてしまった映画だから、ずっと気になっていた。

場末で生きるトランスジェンダーの凪沙と、虐待を受け愛を知らずに生きてきた一果。日陰に生きる二人が出会い、共に暮らすなかで絆を深め、かけがえのない存在としてお互いを必要としていく。通常は小説が原作で映画化のパターンが多いと思う。読みながら映像がつよぽんで再生されて、慎ましやかで儚いイメージの彼女を具体的に捉えやすかったし、逆もアリだなと思えた。涙はでたが感動のそれではなく、たぶん憐憫。性の不一致を抱える人が受ける試練を、凪沙が全て背負っているように見えた。監督さんよ、私たちに現実を突きつけたかったにしては凪沙を酷使しすぎじゃあないかい。

根っからのいい人が登場しない物語、強いて言うなら洋子ママとりんが好きだった。複雑な感情を抱きながらも一果を応援し続けられるりんの強さは、なかなか持てるものじゃない。最も嫌いなのは、実花先生。腹の中が見えない人ほど怖いものはない、はっきり悪役している早織のほうがマシだ。それまで熱を入れていたりんへの手のひら返しといい、赤の他人である一果のために毎週広島まで来る狂気といい、実はりんのお母さんと同じ穴のムジナだよね。バレエの世界うんぬんという描写があった気もするが、本作トップのエゴイストと思う。

エゴイストという点では凪沙もそうで、母ではなく姉として一果と生きる選択ができていたなら、違った未来があったのではないだろうか。そう考えてから、気づいた。私が女性であることにこだわりなく生きていることに。当たり前に女性だからだ。そこには疑いも葛藤もない。私は凪沙を女性と認識しながら読んでいた。だが、生まれながらに女性である私と凪沙は、決定的に違うのだ。彼女は曖昧な自己を決定づけるためにも、肯定するためにも、女性が行きつく先の「母」にならなければならなかった。母にならない選択もある、なんて言うのは不遜だった。ごめんなさい。

一果が彼女を母として慕っていたかどうかは、最後まで読んでもわからなかった。映画に答えがあるのだろうか。